キハ58 790



1966年5月31日日本車両製の第7-1次車で、昭和40年度第2次債務で長野機関区へ配置された。同一ロットの790〜793のうち、790〜792は長野へ、793は新潟へ配置された。長野では中央西線の急行を中心に使用され、急行「きそ」の他、急行「ちくま」「越後」で大阪・北陸本線周りで新潟まで運用された。しかし、1973年の中央西線電化により気動車急行の削減が続き、1974年7月7日付で790〜792共に七尾機関区へ転出した。七尾ではキハ55に代わり急行「能登路」で使用された。七尾は長らくキハ55系急行の天下であり、冷房電源つきキハ28の配置も無かったことから非冷房のまま活躍したが、1978年の急行「ちくま」「ゆのくに」「越後」の電車化により長野や美濃太田、金沢から冷房車が大量に七尾に流れ込んだことにより、非冷房の当車は1978年10月14日付で直方へ転出し、キハ55に代わり筑豊地区のローカル輸送に使用されるようになった。これは七尾に留まり駆け込みで冷房化された兄弟の791・792とは異なる運命であった。以降は直方で800番代や他の非冷房車に混じり普通列車で使用され、1986年11月1日には筑豊地区の路線廃止により竹下へ移り、博多近郊の普通列車用となり後期車であることからそのままJR九州へ継承された。その後は博多近郊の冷房化により1988年度に長崎へ転出するも、松浦線の廃止により1989年3月11日付けで勾配線を抱える熊本へ移動した。移動後1989年5月13日付で近郊化改造及び九州色への変更が行われた。以後豊肥本線等の勾配路線で使用されたが、急行列車の削減でキハ65にも余裕が出てきたことから普通列車の冷房化も進み、非冷房である当車は余剰となり1994年3月24日付で廃車となった。

前面は、前面補強未施工でワイパーも原形のままで、非常にすっきりした面立ちである。その他のパーツも原形のままのものが殆どであるが、タイフォンカバーは、スリット状ながら、下部の形状が若干異なる、九州タイプを装備する。また当車の特徴は、正面窓上の小手すりに「架線注意」の札がぶら下がっており、これは長野時代の特徴であり末期まで残していたのが珍しかった。
屋根上は非冷房のままで原形である。
側面もほぼ原形であるが、近郊化改造時に洗面所が撤去され、臭気抜き窓が撤去されている。
床下もほぼ原形である。九州標準のスカートが取り付けられたかどうかは不明である。
車端部は、近郊化改造時にデッキ仕切り扉が撤去された関係で、貫通扉が新設されている。その関係で下降窓が埋められている。


キハ58イラストのページへ戻る

キハ58系のページへ戻る

ホームへ戻る