キハ58 793



1966年5月31日日本車両製の第7-1次車で、昭和40年度第2次債務で長野機関区へ配置された。同一ロットの790〜793のうち、790〜792は長野へ、793は新潟へ配置された。新潟へは中部山岳登山輸送用の仮配置と思われ、夏季輸送終了後の9月27日付で鹿児島機関区へ正式配置された。鹿児島では急行「フェニックス」等鹿児島・日豊本線の幹線急行や、九州南部の急行で使用されるが、1968年度には直方へ転出した。直方では非冷房車のままキハ58 800番台と共に修学旅行や波動輸送に使用されたが、1975年3月の山陽新幹線博多開業で修学旅行列車が大幅に削減され、キハ58 800番台はそのままローカル輸送に格下げされたが、車齢の若く非冷房の当車は他地区で有効活用されることになり、1975年3月6日付で豊岡機関区へ転出、丹波地方の急行「丹波」「丹後」「但馬」や急行「だいせん」で使用されるようになった。そしてキハ58系冷房化再末期の1979年に冷房化された。国鉄末期の「61-11改正」では福知山線電化により丹波地区の急行が大幅削減されることから当車は若番車の置き換えのため1986年11月5日付で亀山機関区へ転出、関西本線・片町線・信楽線を中心に使用されるようになり、そのままJR西日本へ継承された。JR化後すぐの信楽線廃止・1989年3月の片町線電化後も残り、関西本線で使用された。関西本線は1990年よりワンマン化されるようになり、当車も1990年2月6日付でワンマン化された。しかし関西本線はキハ120系化されることになり、捻出された当車はキハ45系の置き換えのため1994年12月3日付けで小郡へ転出した。小郡転出後は黄色ベースの「広島普通色」へ変更され、ワンマン設備も撤去された。1995年10月1日には組織改正で山口鉄道部となったが運用は変わらない。しかし2000年以降各地からキハ40系が転入し、当車は老朽化のため2002年2月13日付で廃車となった。

流転の人生を映し出す外観が特徴であった。
前面は、前面補強は豊岡由来の後藤工場タイプである。ワイパーはWP50へ更新され、運転台側正面窓下手すりは後藤工場標準のやや短い手すりに交換されている。制御ジャンパ受栓及びステップの位置は、後藤工場標準の位置にある。放送ジャンパ受栓は、福知山・豊岡地区特徴の、タイフォンの上部付近へ移設されている。タイフォンカバーはシャッター付きで落成しているが、直方時代に九州特有の形状のスリットタイプに改造されており、そのままの姿で最後まで活躍した。テールライトは新製時から外ばめである。種別表示幕の横に、列車無線アンテナを挿す筒が設置されており、これは亀山配置車の名残である。
側面では、乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっている。運転室窓のバランサー点検蓋は、後期車の新製時からの蓋が設置されている。広島地区の特徴として側面ほぼ中央部窓下にサボ差しが追設されている。亀山ワンマン時代の車外スピーカーは撤去されている。
屋根上は、通風器が全て断面5角形のは小型ベンチレーターに交換されている。また、デッキ上の通風器は撤去され、標準的な冷房車の形態である。
床下は、ほぼ原型である。


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