キハ58 1049



1967年5月30日富士重工製の第7-2次車で、昭和41年度第2次債務で新潟運転所へ配置された。同一ロットの1048・1049のうち、当車は新潟へ仮配置後館山へ仮配置され、広島へ正式配置、1048は同じく新潟へ仮配置後館山へ仮配置され、鳥取へ正式配置された。新潟へ新製配置されるもすぐ7月6日には千葉県は館山へ仮配置され、夏季海水浴輸送終了後の8月24日に広島へ転属した。広島では主に九州直通急行「青島」で使用された。1975年には山陽新幹線開業で急行「青島」は廃止されるが、引き続き広島運転所に残留し主に芸備線系統の急行に使用された。1983年2月には岩国・亀山・向日町・広島の間で主に汚物処理装置装備車を有効活用する転配が行われ、これにより当車は岩国へ転出した。岩国でも引き続き急行「ちどり」で活躍したが、「59-2改正」で岩国機関区が廃止となり、結局広島へ戻った。国鉄最後の「61-11改正」では、向日町から汚物処理装置付きキハ58が大量に転入し、当時未改造であった当車は1986年11月1日付けで小郡へ転出した。当車は小郡配置のままJR西日本に継承され、急行「さんべ」「ながと」で使用された。その後1990年には一部運用持ち替えで3月10日付で鳥取へ転出した。鳥取には同ロット兄弟の1048がおり、新製直後の館山への仮配置後23年ぶりの再会であった。再会も束の間、1994年12月3日には米子へ転出し、引き続き山陰本線の快速・普通列車に使用された。1997年3月8日には組織改正で後藤総合車両所と名前を変えるが実態は同じであった。その後は1999年に舞鶴線電化により福知山からキハ47が転入したことにより余剰となり、2000年2月3日付で廃車となった。

外観は、広島時代の形態を色濃く残している。
前面は、正面窓上の通風口が埋められているが、水切りは残存している。前面補強は施工されていない。ワイパーは強化型のWP50へ更新されているが、運転席窓下の手すり位置は原型のままで、関西からの転入組との区別は容易であった。制御ジャンパ受栓はタイフォンの左右に移設されているが、ステップの位置は原形のままで、後藤工場標準車とは形態が異なる。放送ジャンパ受栓は、広島地区特有のタイフォン上部に移設されている。タイフォンカバーは当初からシャッター付きで落成しており、そのまま最後までシャッター付きであった。テールライトは新製時から外ばめであった。また当次車からは標識灯掛けフックの台座がなくなっていた。
側面では、乗降ドア隅の丸穴はHゴムが黒くなったものの残存しているのは山陰地区の標準。乗務員室窓バランサー点検蓋は、原型のままであった。また便所窓は当次車以降は横長のものになっていた。
屋根上は冷房化改造後手が加えられておらず、押込通風器・水タンクは冷房化当時のまま、さらに前位側・後位側ともデッキ上の通風器が残存している。
床下機器はほぼ原型である。


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