キハ58 1138




1968年12月26日富士重工製の8-4次車で、昭和42年民有債で奈良へ配置された。当ロット1138〜1140全車が奈良配置である。奈良では急行「かすが」「はまゆう」等で使用されたが、1973年10月の改正で受け持ちの変更があり、和歌山に配置されていた一般型気動車を奈良へ集約し、奈良の急行型気動車を和歌山へ集約する動きがあり、1973年10月1日で和歌山へ移動した。以降は「かすが」の他、「きのくに」「はまゆう」等でも使用された。奈良時代は非冷房であったが、和歌山転出後、1970年代中盤に冷房化されたものと思われる。1978年の紀勢西線電化後も「きのくに」は気動車のまま残り、当車も和歌山で引き続き使用された。「60-3」改正で特急「くろしお」に485系が投入され急行「きのくに」が格上・全廃されるのに伴い、当車は同ロットの仲間と揃って丹波地方へ転出することになり、1985年3月21日付で豊岡機関区へ転出した。これは、豊岡には車齢の高い若番車や非冷房車が集まっていたため、これを置き換えるためである。国鉄最後の「61-11改正」で福知山線が電化され、豊岡配置車は大幅に入れ替えとなったが、当車は後期車でありそのまま豊岡に留まり急行「丹後」「但馬」や普通列車で使用され、JR西日本へ継承された。JR化直後の1989年3月改正では豊岡運用の一部が福知山へ移管され、1989年3月22日付で福知山へ移動した。1990年3月の園部電化では急行には大きな変化はなく、当車は「丹後」に引き続き使用されるが、1991年3月のダイヤ改正で園部〜福知山間でワンマン運転化されることになり、このワンマン車には車齢の若いモデルチェンジ車が揃えられ、当車はワンマン化された。1991年3月20日鷹取工場での施工であった。ワンマン化後は当然普通列車専業となり、山陰本線・舞鶴線でキハ47とともに使用されたが急行色のまま残ったのが救いであった。なぜかキハ47のような黄緑色の福知山色にはならなかった。福知山では、1996年3月16日の園部〜綾部間電化後も引き続き舞鶴線や山陰本線城崎以西で使用されたが、1999年10月2日の小浜・舞鶴線電化で福知山運転所の気動車配置自体が消滅することとなり、当車は1999年10月2日付で小浜鉄道部へ転出した。小浜へは1117・11386が転出し、非冷房のキハ53が廃車となった。小浜転入時、速やかに小浜色へ塗り替えられた。その後小浜線で使用されたが、2003年3月15日の電化で用途を失い、2003年8月29日付けで廃車となった。

前面は、正面窓上の通風口が埋められている。前面補強はされていない。放送用ジャンパ受栓位置は関西タイプで和歌山時代の名残である。これにより福知山生え抜きの1117との区別は容易である。
屋根上は、冷房化以外ほぼ原型で、デッキの通風器も残っている。
側面では、乗降ドア隅の丸穴が完全になくなっている。ワンマン化に伴い、最前部の側窓下と、後位側の便所臭気抜き窓下に、ワンマン用スピーカーを備える。
床下機器はすべて灰色で塗装されているのは晩年の金沢地区の特徴であった。また、油タンクは角型の新型に更新されている。


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