キハ28 8 → キハ28 2008
1961年6月8日東急車両製の1-1次車で、昭和35年度債務で広島機関区に新製配置された。同一ロット7〜10全車が広島へ配置された。広島では急行「宮島」等、山陽本線の急行列車で使用開始した。山陽本線の全線電化後は九州へ乗り入れる急行「青島」で活躍したが、1964年に新潟よりキハ28
60・61が転入すると広島のキハ28
7・8が捻出され、当車は1964年9月で美濃太田へ転出した。美濃太田では急行「のりくら」を中心に、名古屋を起点とする急行列車で使用された。1968年10月には金沢との間で運用移管があり、当車は金沢へ転出し、急行「大社」の金沢編成や急行「ゆのくに」等で活躍した。1970年には需給の関係で名古屋へ移動し、再び名古屋を起点とする急行「のりくら」や「紀州」等で活躍した。そして1972年7月18日付で冷房化及び4VK電源装置取り付けを行い2008へ改番された。同年度中に美濃太田へ移動したが引き続き名古屋周辺の急行で活躍した。「53-10改正」では中部地区の急行の大幅削減が行われ、この際に当車は1978年10月6日付で七尾へ転出し、七尾線の急行「能登路」の冷房化のために使用されるようになった。この状態は長く続き、そのままJR西日本へ継承された。JR化後は1988年の能登線廃止により七尾のキハ58系には余剰が出ており、当車は山陰本線京都口の客車列車を気動車化する際に活用されることになり、1988年9月10日付で福知山へ転出した。この当時七尾にいた車両のうち、若番車や非冷房車が主に転出した。その直後の1989年3月ダイヤ改正では、山陰本線保津峡新線切り替えにより所要時間が短縮し運用数が減ったことにより余剰となるが、当車は幸運にも七尾へ戻ることとなり、1989年3月11日付で七尾へ転出した。七尾では近郊化改造されず引き続き急行を中心に使用され、1989年9月12日付で「七尾急行色」へ塗装変更された。1991年9月1日のダイヤ改正では七尾線の和倉温泉までの電化及び以遠の第三セクター化が行われ七尾の気動車配置は廃止されたが、当車は引き続き残った急行「能登路」用として1991年9月1日付で金沢運転所へ転出し、これに先立つ1991年8月9日付で黄色ベースの「能登路色」へ変更された。以後急行「能登路」で引き続き活躍したが、2001年3月改正で急行「能登路」は縮小され、当車は2001年2月7日付けで鳥取へ移動した。これは、鳥取では既に車両の置き換えが決定していたが、検査切れの近い車両に新たに検査を受けさせることは得策でないため、検査期限に余裕のある当車が期限切れの車両入れ替わるように使用されたものである。鳥取では黄色の「能登路色」のまま山陰本線で使用され、異彩を放っていた。当時山陰本線は急行色で統一されていたため、バラエティに富む反面、編成美が崩れ、痛し痒しであった。このピンチヒッターも長く続かず、2002年8月31日で廃車となった。
前面は、前面補強されていないと思われる。正面窓上の水切り・通風口は延命工事の際に撤去されている。延命工事施工時に熱線入りガラスに変更されたのでデフロスタは装備しない。ワイパーはWP50に更新され、それに伴い運転室窓下の手すりが撤去されており、金沢地区特有の形態である。テールライトは原形の内ばめ式のままである。タイフォンカバーはスリット式であるが、助手席側に金沢地区特有の傘タイプのカバーが付いている。制御用ジャンパ受栓は左右離れた位置に付いている。ステップは1次車原形の、タイフォン上部に設置されている。放送用ジャンパ受栓は、タイフォン横に設置されている。
側面では、汚物処理タンクが設置されているので、便所部側面に点検蓋のようなものが設けられている。正面雨どいが撤去された関係で、乗務員室側窓上部に水切りが追加されている。運転室窓のバランサー点検蓋が追設されており、塞ぎ板が溶接されている。乗降ドアの戸袋点検蓋が、後期車のような横長のものに更新されている。
屋根上は延命時にすべての通風器がガラベンに交換されている。
床下機器は1990年代以降の松任工場標準の、グレー台車になっている。油タンクは角型の新型に更新されている。後位側では、汚物処理タンクが設置されている。
以下、形態の変遷を示す。
1990年頃
七尾線電化前の七尾急行色時代。七尾車では珍しくタブレットキャッチャーを付けていた。
1991年頃
↑七尾線電化直後の姿。能登路用の延命工事が施工されているが、正面窓上の通風口はそのままである。また汚物処理装置も未取付ながら準備工事が施工されたのか点検蓋は取り付けられている。床下水タンクの形態はこの当時FRP製のものに交換されていたかは不明であるが、イラストはFRPで描いている。
1992年頃
↑1992年には汚物処理装置が取り付けられている。
1995年頃